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ガザの虐殺:グランド・ゼロからの目撃証言
2002年7月26日(金)


7月22日月曜日の夜、ガザ市中央に位置するアル=ダラージュ地区の住民は、イスラエルのF16戦闘機から集住地区に放たれた1トンの「スマート[訳註:誘導型]爆弾」の爆発による破壊を経験することになった。この悲劇的事件により最終的に民間人16人が亡くなった。内9人は子どもで、6人は同じ家族の者だった。

現在、現場付近一帯は瓦礫の山と化してしまっている。破壊、苦悩、負傷者、そして愛する者の死。

以下は、被害者と救援者に直接聞いた目撃証言である。

ナビール・アッサイディ一家の話

ナビールは30歳。2人の兄弟とその家族と共に暮らしている。一般的に、パレスチナ社会の多くの家は3階建てか4階建てで、両親が1階、息子とその家族は2階から上で生活している。これは大半のパレスチナ人家族、特にガザ地区の人々にとって、ごく普通の家庭の取り決めであると言えるだろう。

爆撃の夜、ナビールはあるテレビのニュース中継で無事が確認されていた。埃まみれの家が映し出され、ナビールはその時、爆撃によって堆く積もった瓦礫の山から家族を探し出していた。

爆撃の15時間後、ナビールは依然として疲れ果て、混乱した様子でいた。唇には乾いた血痕がついたまま、髪は埃を被ってまるで白髪同然だ。ナビールは、部屋の前に腰を降ろしていた。本来なら「客間」であるはずの部屋だが、しかし今は壁が全くない。壁は粉々に吹き飛ばされてしまったのだ。

ナビールは語り始めた。「私は屋根の上で家族と座っていました。兄と母も一緒でした。今は夏だから、普段平らな屋根の上に腰を降ろすんです。涼しいですからね」。少し言葉を切って気を落ち着け、そしてこう続けた。「突然、私たちは吹き飛ばされ、床に投げ出されてしまいました。至るところで、たくさんの瓦礫が飛び散り、破片が燃えていました。辺りを見回すと、家族が皆、血を流して床に横たわっていました。それから私たちは、テレビがある部屋にいた父を探そうと、階下に降りました。1階にいたのは父だけだったのです」。

ナビールは付け加えた。「テレビの部屋にいる父を探しました。しかし初めは、父の姿が見えなかった。すさまじい瓦礫の山、埃、曲がったワイヤー、吹き飛んだ家具。程なくして、部屋のあちら側で父を見つけました。父の頭には金属の破片がささっていました」。

ナビールは一旦話をやめて向こう側を見、そして言った。「今、父は病院の集中治療室で治療を受けています。助かるかどうかはわかりません」。

その時、兄のハリドがさらに憔悴しきった様子で私たちの所へ来て、こう言った。「わたしは足が折れています。妹の体は爆弾の金属破片で覆われています。全部取り除くには、何度も手術を受けなければならないでしょう。兄弟の子どもたちは皆病院にいます。集中治療室です」。

ハリドは、その夜、自分の妻と子どもたちがいかに幸運であったかを語ってくれた。「その晩、妻はガザの別の地区にいる両親の所へ行くことにしていました。子どもも一緒に連れて行き、祖父母のもとで夜を過ごしました。私の部屋は、建物でもっとも被害が大きかった。妻と子どもがもしここに居たとしたら、きっと死んでいたことでしょう。でも、彼女たちは助かったのです」。

ハリドは、階下で頭に爆弾の破片がささった父親を見つけた時の恐怖を語った。「私たちは瓦礫の下で父を探していました」。

弟のナビールは付け加えて言った。「私にとって重要なのは、子どもたち、そして家族の無事と回復です」。そしてこう述べた。「神に向かって嘆くしかない」。

フッサムの話

フッサムは20歳のパレスチナ人。爆撃を受けたアル=ダラージュ地区近辺の別の地区に住んでいる。フッサムは自らの言葉で目撃したことを話してくれた。「爆発音を聞いた時、すぐさまアル=ダラージュにいる親友の家に電話しました。ですが、誰も電話に出なかったので、とても心配になり、友達の安否を尋ねるため、そして彼を手助けするためにその地区へと急ぎました」。フッサムはこう付け加えた。「そこへは走って行きました。着くとすぐに、友達が犠牲者を助け出しているのを目にしました。最初、彼の無事を知り胸を撫で下ろしたのですが、それも束の間、彼と一緒に救助を始めました」。

大学生のフッサムは、自らが遭遇したもっとも痛ましい出来事について語ってくれた。「アイマンという2ヶ月の赤ん坊を発見した時のことです。その子は息絶えた母親の胸で死んでいました」。「たぶん、爆撃があった時、お母さんのお乳を飲んでいたんじゃないかな。赤ん坊も母親も死んでいました。どちらも生きている見込みはまったくなかった。2人は一緒に死んでしまったのです。友達と僕は赤ん坊と母親を一番近くの救急車に運びました」。

続けてフッサムはその晩経験したことをこう語った。「僕たちは朝の6時になるまで、人々を救助していました。中には、体がばらばらに吹き飛ばされた人もいました。骨、脚、腕が至るところにあったのです。ある時、僕は友達に肉と血の残骸を運ぶのを手伝ってくれるよう言ったんですが、彼はそれを見た瞬間、気絶してしまいました。それで、僕は誰を助ければいいのかわからなくなってしまった。気絶した友達か、それとも犠牲者か」。

話をしている最中、フッサムは一旦言葉を切り、再び私たちの目の前にある巨大な瓦礫の山を見て、こう述べた。「僕はアメリカに言いたい。神を畏れよ。お前たちは何の罪もない子どもを殺すために武器を送り込んだ。ハラム(憐れみあれ)」。

14歳の少年ラミは、私たちの横でフッサムの話を聞いていた。ラミもまた発言したかったのだ。しかし彼の言葉は、まるで老人が発した言葉のようだった。「ここみたいな込み入った地区を攻撃するのに、あんな大きなミサイルなんて必要なかったんだ。ここを見ればわかるけど、アメリカ人とイスラエル人はたくさんの子どもを殺した。憐れみあれ」。

15歳の少年ムハンマドは、昨夜の救助活動の努力について語ってくれた。「僕は一人も助け出せませんでした。でも、たくさんの指、肉の破片、それに目までも見つけてしまった」。

フッサムと彼の友人たちはこの悲劇的な攻撃によって、ひどく打撃を受けている様子だった。この様に多くの子どもたちは、この恐ろしい悲劇のために深く悲しみに打ちひしがれている。わけても、自らの友達や隣人を亡くしたことによって。

B.サメド
2002年7月26日
ガザ、パレスチナ


→英語原文












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