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シャロンはサブラ・シャティーラの悲劇を散発的に繰り返している
2002年3月11日(月)


昨晩、3月11日、ガザで最も大きく、最も過密なキャンプは、これまでになく、恐ろしく、暴力的な悪夢をかいくぐった。それは、あらゆる人道的・文明的な行動規範に反するものであった。

ジャバリア難民キャンプの埃っぽく、混雑した道路という道路では、住民達はまだショックでうろたえ、疲労しているように見える。というのも、彼らはほとんど一晩中、キャンプを侵略しにきた、戦車隊−−戦車とブルドーザーの50台からなる−−と格闘していたからだ。

長く暗い夜が明けたとき、人々は、彼らの息子達、友人達の17人の命が失われたことを知った。56人以上が負傷し、そのうち15人は重傷だった。多くの人々が口々に彼らの体験ーーどのようにして、イスラエルの戦車が難民キャンプの中心にある交差点を陣取り、兵士達が住人を追い出し、家々を占拠したのかーーを話したがった。彼らによれば、しばらくしてイスラエルの狙撃兵達が家々の屋根の上に配置され、視界に入る人すべてに発砲し、殺しまくる−−ほとんどの場合、消音銃によって−−という、地獄さながらの光景が始まった。

名前を明かすことを拒否した二人の抵抗戦士は、どうやって、前進してくるイスラエルの戦車と対決しようとしたかについて語った。26歳ぐらいの一人の男は、「イスラエルの戦車がキャンプに侵攻してきたと聞いたとき、若者達は戦車がジャバリアのなかに深く侵入するのを阻止するためにキャンプ近郊に詰めかけたんだ」と言った。一睡もしていないと言って、見るからに疲れた表情をした、彼の友人は、「戦車は800ミリの砲弾を私の家か遠くないところに撃ちました。私は、土嚢の後ろに配置された一台の戦車に気付きました」と言った。彼は、たばこを吸いながら、深いため息をついて続けた。「この戦車は、突然道に向けて発砲しました。私の目の前で、彼らは、一発で7人の人々を殺害しました。7人のなかの2人は、ハニ、そしてムハンマド・アブ・スハイラという名の27歳と25歳の兄弟でした。この7人のなかには、私の親しい友人もいました。そのうちの一人は、ファウジ・アブ・シャマスという名の、特に親しい友人でした。同じあたりからきた銃弾によって、ラミとマジュディが胸と頭を撃たれるのも見ました。」

私達がキャンプの中央市場で立ち話をしているとき、一群の人々が来て言った。「戦闘は2時間から3時間は続いたよ。イスラエルのアパッチヘリが戦闘中ずっとジャバリア上空を飛んでいたんだ」。

別の男は人を押し分けて割り込んできて大声で言った。「私達は、恐ろしい騒音で目が覚めた。戦車、ブルドーザー、アパッチ、重機関銃が私達の家々に向かって発砲する音だ。住民は命からがら通りに逃げ込んだ」。彼は付け加えて、「昨晩は一睡もできなかった。俺達はどこからどのように狙われているか分からなくて、とてもおびえている。奴らはあらゆる方法を用いて仲間を殺した。」

20歳の若者が指を左右に振って言った。「俺たちは戦車が前進するのを止めようとしたんだ。俺たち男が頑強な抵抗を見せた」。もう一人の若者同意して言った。「西岸で起きているように、奴らは俺達を逮捕しにやってきた。でも、強い抵抗があって、奴らは帰っていった。私達は彼らを撤退させたんだ」。

26歳の戦士が、「イスラエルはまた侵略しようと企んでいると思う。我々は油断無く、注意深い」と言った。彼は強調して次のように言った。「ジャバリアはいつも頑強さの象徴だった。我々は堅く決意をした人民だ。我々は最後には勝つ」。

オサマ・アル・シンワルの物語

オサマは、4人の子どものいる29歳の男性である。彼はガザ市のシファ病院でベッドに横たわっていた。彼の悲劇は、ジャバリアにある彼の家の近くで始まった。一つの銃弾が彼の足の間を直撃し、ひどく負傷した。医者が手術をして、銃弾の摘出に成功した。

「最初のうち、銃声は全く聞こえませんでした。私は家に帰る途中で、家の前にある広場を歩いていました。そのとき、突然、目の前で数人の男が頭や胸や腹部から血を吹き出して倒れるのを目撃しました。ユダヤ人が消音銃を撃ちながら叫ぶ声が聞こえました」。オサマは数秒の間をおいて、裸の胸にかけていたタオルを引き上げて、話を続けた。「私はイスラエルの狙撃兵が私達に向かって発砲しているのだと気付きました。私は身をかがめて、痛みで叫びながら、胸から流れ出る血を止めようとしている男を助けようとしました。私が彼に触れようとしたそのとき、私は足の間に銃弾が当たったのを感じたのです」。オサマは話を止め、撃たれた場所を見せるためにタオルを持ち上げた。オサマの隣に座っていた彼の父親が言った。「戦車が入ってきたとき、イスラエル兵ーーあるいはむしろ狙撃兵と言った方が良いかもしれないーーが20軒程の背の高い家屋に乱入していった。彼らは建物の所有者を追い出し、その屋根の上に直行した。 そこから、彼らは目に入る人全てにめがけて銃を撃ったんだ。お分かりの通り、私の息子も、その中に含まれていたんだ」。

父親は付け加えて言った。「私の息子は出血したまま1時間以上倒れていたんだ。私達は救急車を待っていたけど、イスラエルの戦車によって、攻撃を受けている地域に救急車が、入ってくるのを阻まれていたんだ。そこでは、多くの人が血を流して倒れ、死んでいったよ」。オサマは、「一台の救急車は狙撃されました」と言った。

オサマは、「シャロンは、レバノンのサブラ・シャティーラのときと同じ視線で私達のことをみています。彼は同じ虐殺を繰り返している、同じ死刑執行人です。しかし、今回、彼は被占領地全体の難民キャンプで、血に飢えた目的を実行に移しています」と言った。

彼は、続けて言った。「私達はシャロンに、戦争ではなく平和への道を選択するよう、訴えています。占領政策は双方に悲惨な結果を招くだけだと」。

最後に、けがをした若者から世界へのメッセージを語ってもらった。「平和で安全な生活は我々の権利だ。俺が言いたいのはそれだけだ」。

一緒に殺された、ある父子の物語

外で聞こえた物音が何か確かめようとして、老人は、家から出て、2メートルほど歩いた。数台の戦車が数十メートル先にいることに彼が気付く前に、イスラエル軍の銃弾が彼に命中し、男は即死した。34才の彼の息子は、機関銃の音を聞いて、外に駆けつけた。彼は、最期の瞬間、父親が血にまみれているのを見た。彼が、地面に膝をついて、父親を抱き起こそうとしたとき、戦車は息子に向かって発砲し、彼は父親の上に折り重なるようにして、死んでしまった。アル・アゼムという名の残された彼の家族は、これ以上、流血は止めてくれ、と戦車に叫んだ。

サワルハ家の物語

サワルハ氏は、ガザ市のシファ病院で手当を受けながら、被弾したときの様子を語った。銃弾右肩にあたったものの、骨や神経に損傷がなかったので、彼は幸運だったと考えている。

彼は語り始めた。「私達が家でくつろいているとき、突然停電が起きました。アパッチが近くを飛んでいる音が聞こえました。私は安全のため子どもを一階に連れて行こうとしました。しかし、わたしが彼らを連れて暗い階段を降りているとき、何かが右肩に当たるのを感じました。それは800ミリ砲弾で、私の肩を貫通して、後ろにあった壁に当たりました。私は救急車が来るまで、一時間以上、血を流したまま待っていました。というのも、救急車が私の家に来るのをイスラエルの戦車が邪魔していたからです」。

ジャバリア難民キャンプ
2002年3月12日

B.サーメド


→英語原文












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