パレスチナの平和を考える会

追悼・信原孝子さん

2014年6月11日、長年パレスチナ支援に携われてこられた信原孝子医師が永眠されました。信原さんは、1971年から1987年にかけて、ボランティアの医師としてレバノンおよびシリアのパレスチナ難民キャンプで医療支援をされ、帰国後も地域医療に関わられながら、精力的にパレスチナ連帯運動を担われてきました。

1970年代後半のキャンプ戦争や1982年のイスラエルによるレバノン侵略という厳しい状況においても、信原さんはパレスチナの人々と共に最後まで医療活動を続けられました。その後、ダマスカスに活動拠点を移された信原さんは、日本赤軍との関係をでっち上げられ、パスポート発給を拒否されました。この処置の取消しを求めて行われた裁判闘争は12年に及び(1983~94年)、結果的には敗訴してしまいましたが、パレスチナ解放運動と日本をつなぐ重要な草の根の取組として記憶されて良いでしょう。

パレスチナの平和を考える会には、1999年の設立当初から積極的に関わられ、7~8年前からは会の事務局メンバーとして、私達の活動を一貫して支えてくださいました。17年にわたり現地でパレスチナ人と生活を共にされてきた信原さんの存在は、様々な面で私達の運動を豊かなものにしてくださいました。会議や作業に追われ、皆が疲れているときに、レバノン時代の思い出話でその場を和ませたり、アラブ・コーヒーを入れていただいたこともありました。最後に私達の活動に参加されたのは、京都でのネタニヤフ来日抗議集会(5月14日)でした。信原さんは、最後の最後まで、パレスチナの状況、とりわけ内戦下にあるシリアのパレスチナ難民の状況について心配されていました。

私達の友人であるヨルダン渓谷連帯委員会のファトヒ・クデイラートさんは、信原さんについて「彼女は特別な人でした。彼女は自由のための闘争に人生の全てを捧げました。私達は彼女に(天国で)再び会うまで、(パレスチナの根源的な解放という)彼女が歩んだ方向を目指して歩み続けなければなりません。私の良い友人であり、良い姉であったスアードのためにイスラム教徒として特別の祈りを捧げます」と哀悼の言葉を送られています。

また、ベイルートのNGO「子供の家」の所長であるカッセム・アイナさんも「私の友人、信原医師の死を深く悼みます。私達にとって彼女の死は大きな喪失です。彼女の魂がどうか安らかに眠られますように。彼女の思い出は私達の中でこれからも生き続けるでしょう」とのメッセージを寄せられました。

信原さんは、そのオープンな人柄と平和への情熱をもって、パレスチナの解放を願う多くの人々をつなぎ合わせる重要な役割を果たして来られたように思います。私達は、彼女が渇望した公正な平和への思いを引き継ぎ、さらに多くの人々を反戦・反占領・反植民地主義の闘いにつないでいく触媒となれるよう、人間的にも思想的にも成長していきたいと思います。信原さん、長い間私達を支えていただき、本当にありがとうございました。どうかゆっくり休んでください。

パレスチナの平和を考える会
2014年6月

写真:
【上】ヤルムーク難民キャンプの診療所にて
【下】ダマスカス郊外セット・ゼーナブ・キャンプでレバノンから逃れてきた難民の子供たちとともに(撮影:豊田直巳)